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澁徹語録 第9回

  澁徹語録  第9回   「追悼 室田哲郎氏」

  室田哲郎氏が昨年末に故郷の刈谷市に帰省中に急逝されたとの通知を年が明けてからいただいた。突然のことで言葉もなかった。彼はまだ60歳になっていなかったと思う。室田氏は名古屋大学の同じ研究室の出身で、安全センターで10年近く一緒に仕事をしていただいた。三菱化成に転出後にも、イタリアの学会に同行させていただいた。この旅では、列車でスイス、ドイツ、オランダさらにフランスなどを巡り、研究所や大学を訪問した。氏は飄々とした態度で、淡々と仕事をこなしてゆくタイプの都会的な香りのする好人物であった。 

 研究に関しては、我々の分野では最高の雑誌であるMutation Research誌でも最難関の緑版に、センターから初めて2つの論文を出版されたことは特筆に価する。特に、雄マウスを代謝活性化物質で前処理して、優性致死率を調べた研究は極めて斬新なアイディアであった。その後も、お得意のヘモグロビン遺伝子座の突然変異誘発研究で業績を上げられ、昭和大学から「医学博士号」を授与されておられる。この研究は、この分野の世界的な権威者である、W. L. Russell先生の目にも留まった。先生は共同研究者の私を含めた実験結果をすべて送るように依頼されてきたほどであった。私の業績となっているマウス始原生殖細胞の突然変異の研究も、室田氏と始めた共同実験から始まっている。 

 室田氏と私は国立遺伝学研究所の形質遺伝部に派遣され、氏は1研究室で村上先生からカイコの突然変異誘発の研究を、私は第2研究室で黒田先生から培養細胞の突然変異の研究を学んでいた。田島先生が部長で、環境変異原の遺伝的影響についてのレクチャーをよく伺った。二人は冷房もない同じ下宿に住んでいて、遺伝研の帰りには、いつも坂下のラーメン屋かホルモン焼き屋で夕食を共に食べ、私だけがビールを飲んでいた記憶がある。村上先生の指導はとても厳しかったようで、お酒の飲めない氏からずいぶんと愚痴を聞かれたのも懐かしい思い出である。村上先生は胃がんで比較的若くして亡くなられている。  センターに帰ってからは、二人ともこれらの研究をやめて、マウス生殖細胞の突然変異誘発の研究に転向することになった。これには同じ遺伝研の土川先生からのご教示が大きかったように記憶している。先生からテスター系統のPWマウスを分与していただき、それを静岡実験動物(SLC)でSPF化していただいた。それらを自家繁殖するとともに、SLCでコロニーとして繁殖したものを購入して、スポットテストや特定座位試験に活用したのも楽しい思い出である。

 土川先生との交流は月に一度位、土曜日の午後に二人で室田氏の車で遺伝研を訪問するのが常であった。毎回まず先生から「何か面白いことはありましたか?」というご質問で始まり、我々がデータを示して、それに関する先生のコメントを頂く。5時近くになると、三人でのセミナーは修了する。先生の車でお宅までゆき、そこから「函南タクシー」で三島の町に繰り出す。「やっこ」などの料理屋で素敵な食事を済ませると、いよいよカラオケタイムとなる。室田氏は若向きの歌をよく歌った。カラオケが苦手の私はひたすら水割りのお変わりをするだけだった。時には奥様が後から駆けつけられることもあった。昔「謡い」をされていた土川先生の歌は朗々と響き、夜は更けてゆくのであった。 その当時センターの遺伝学研究室には田中憲穂と加藤基恵(現チリ・サンチャゴ大学)両君のマウス染色体研究チームもあり、遺伝子研究のわれわれといい意味での競争をしていた。今から思うと、技術員を入れてもたった6人の人数でよくあれだけの研究が出来たものと思う。その当時の遺伝学研究室は世界最高レベルの研究室であったといっても過言ではないだろう。とにかく、あのころは毎日楽しく研究が出来た。それも副所長で担当部長であった岩原繁雄先生の深いご理解と独特の放任主義のお陰であったと深く感謝している。

  室田氏は運動神経抜群でスポーツの面でも多くの業績をセンターに残している。当時はセンターに”Wanderers”という草野球のチームがあり、エースで4番であったと記憶している。とかく草野球の投手はなかなかストライクが取れず、自滅することが多いのだが、室田氏の投球はコントロールがよく、「打たせて捕らせる」というタイプの投手で、監督の私も安心して任せることが出来た。テニスも上手で、秦野市の大会にもよく出ていた。ある時、実験をしていた私もこれに借り出され、臨時に出場した。私がマッチポイント直前にスマッシュを空振りして、形勢は一転して試合に負けたことも懐かしい思い出である。  室田氏は愛知県の刈谷高校の出身で、サッカーが好きであった。氏から『サッカーにはワールドカップというものがある。一度は見てみたい』と聞かされてことを鮮明に覚えている。今では日本も常連の出場国になっているのだが当時は何のことか分からなかった。氏は『山口百恵』の大ファンで、「百恵の赤いサンダル」というコマーシャルのトヨタの車に乗っていたのもご愛嬌だった。私が氏に最後にあったのは、一昨年の秋に氏の会社を訪問した時で、少し疲れているようだった。今年の年賀状で、仲人をされた高鳥浩介さんから「しぶチャンにも室チンにも会いたい」という文面があったが、室チンにはもう会えないことになってしまった。謹んで室田哲郎氏のご冥福をお祈りいたします。


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